こんにちは、リン☆だあく(@rindark)です〜!
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リン☆だあくワンオペ育児の略歴
- リン☆だあくの主夫業の始まり
- ■妻の仕事が夜勤のある仕事に上の子出産後2ヶ月で復帰。
- ■夜勤の日や休日妻が仕事の日は、上の子が0歳の頃から時折ワンオペ育児を経験。
- ■下の息子が生まれ、またすぐ仕事復帰、妻の仕事が忙しくなる。
- ■数年後、妻の仕事がフル稼働状態、同時にわたしのフルワンオペ育児の始まり。(2009年ごろ)
- 妻の単身赴任期
- ■下の子が保育園の年中さんの時(2011年)に、妻がキャリアアップのため単身赴任をする事に!
- ■始まった当初は、わたしの家事も育児もまだまだ初級者クラス…。
- ■妻の単身赴任の赴任期間は未定だった…。
- ■結局合計約10年間ワンオペ育児をする事になる主夫リン☆だあくだった!🥺
- 単身赴任の終わり
- ■2019年、妻の単身赴任が終わり、わたしのワンオペ育児期は終了。
その一、母を亡くし、その一年後娘が生まれる
妻とは、高校時代からの付き合い。
私が美術部の先輩で、その一年下で妻が美術部に入部したのが出会いだった。
私が高校3年になると美術部部長に選ばれ、部を率いる事に。
それから、何故か妻と仲良くなり、いつの間にか付き合う事になる。
そんな日々が壊れずに続き、結局妻と結婚する。
結婚してもなかなか子供ができず、わたしの母は孫の顔がみたいといつも言っていた。(妻はそれがプレッシャーだったらしい)
けれど、母が突然の急逝をする。
その一年後、わたしは父になるのだった。
父になる
私と妻の間に娘が生まれた。暑い夏の日だった。
幸運だったのが、同じ日、同じ病院で、妻の妹も出産をするのだ。
わたしはその日に、同時に、父と、伯父になった。
その頃の思い出として、叔母(母の妹)に言われた言葉が忘れられない。
「○○ちゃん(妻の名前)は、命をかけて子供を産んだんだから、おまえは感謝をしなければならないよ!」
これが育児を始める時に、頭に刻まれたのだった。
生後2ヶ月で娘は保育園に行く
妻は仕事が好きだった。
だから、娘が2ヶ月の時には、保育園を妻が探し出し預けることになった。
その保育園までは、妻の実家に協力してもらい、送り迎えをしてもらった。
わたしと妻ではわたしの方が妻の実家に近かったので、妻の実家にお迎えに行って、お買い物するのが当時のわたしの役割だった。
この時は、まだ妻の実家に頼っていたので、わたしの育児スキル、家事スキルは全然だった。
また事件!妻の母も倒れるし、妻の父も体調を崩す
こうして、娘が年少になるまでは、その最初の保育園で妻の実家に頼っていた。
けれど、ある日、妻の母が倒れてしまったのだ。(脳出血だった)
妻の父も糖尿病の持病を持っていたので、段々体調も悪くなっていった。
それで、わたしも覚悟を決め、仕事を転職。
定時で上がれる仕事に変わり、保育園の送り迎えも自分で担当するようになっていった。
頼れる人がいなくなって、妻に教わりながら、家事育児スキルを上げていった。
その二、思った以上に妻はキャリア志向だった!
そうして、私に一定の家事育児スキルが付いたのを見た妻は、仕事にフルコミットするようになった。
介護の仕事だったので、きっと働きがいがあったのだと思う。
仕事も夜勤のある仕事にシフトして行き、それに伴い私もワンオペ育児のデビューをするのだった。
夜勤の時、妻の土日出勤の日は、一日中子供と二人っきり
多分育児をしていて、一番辛かったのはこの頃だったかもしれない。
保育園にお迎えに行って、お買い物をし、ご飯を作り、娘をお風呂に入れさせて、洗い物をして、明日の娘のお弁当のご飯をタイマーセットしてた。
寝かしつけて、一通り家事と育児が終わるのが夜の10時ぐらいだった。
やっぱり若いわたしでもクタクタで、娘と寝落ちする事も数え切れないぐらいだった。
保育園に通っていると、どうしても他の子から病気をもらってくるのがこの時期にはありがち。
妻の仕事が休めない事が多かったので、熱が出たりした時の付き添いはほとんど私がやっていた。
そのおかげで会社の仕事の効率化を徹底的にやれる様になったのだけれど。
この時期は娘と二人っきりで過ごす事が多かった。
当時は周りの友達で、育児をしているパパは全くいなかった。
このツラさを共有出来る場所が無かった。
もがいていたあの頃の私
もちろん、育児での悩みは妻が聞いてくれてはいたけれど、仕事の邪魔をしたくはなかった。
けれど、まわりに相談する人が全然いない環境。
娘が保育園での楽しい出来事を話してくれるのを聞くのが唯一の楽しみだったかもしれない。
あの頃はとにかく、仕事をしながら、ボランティアの消防団をしつつ、家事育児をしていた。(そして2人目の子の息子も生まれていた)
無我夢中っていうのはあの頃の事をいうのだろう。
たまに妻と休みが合った日は、ゆっくりさせてもらった。
本当にありがたかった。
でも、やっぱり思ったのは育児の悩みを気軽に話せる人がいるのといないとでは、全然違っただろうなぁと今のわたしは思う。
それから数年後、妻の入院!(突発性難聴)
一番の危機だったのは、妻が突然入院したことだ。
あの時は、耳がおかしいと言う事で、普通に耳鼻科に妻が行ったのだった。
それから、数時間後電話がなり、緊急入院すると!
慌てて入院セットをつくり、妻が入院する病院に持っていって、そのまま妻が入院してしまった。
それは、突発性難聴といって、直ぐに入院治療をしなければ、聴力が失われるという原因不明の病気だった。
わたしはこれで、完全に1人で娘と息子を見ながら、妻の入院のお世話をしつつ仕事に行っていた。
あれぐらい辛い日々はなかった。
それでも、妻の妹も妻のお世話や、子供達の一時預かりをしてくれて、めちゃくちゃ助かった。
妻の妹も嫁いだ身だったので、いつでも気軽には頼めなかったけれど。
その三、震災直後、妻が単身赴任をする!
そして私の育児人生で、一番の事件が起きる。
それは、妻が仕事でキャリアアップできるチャンスがやって来たのだった。
なんと、現在地から離れた所で会社を立ち上げる社長さんの右腕として、遠くに行く事を意味していた。
最初は当然悩んだ。
私も仕事を辞めて付いて行くのか?けれど娘の小学校に入学したばかりで、一番ナーバスな時期だった。
結局話し合いの末、妻が単身赴任をする事を選んだのが、今の結果になっていく。
奇しくも「東日本大震災」の年だった!
ある日、会社で仕事をしていたら、突然の揺れ!
大きい、かなり大きい!
会社のみんなも建屋から出て、駐車場に避難した。
地面が波の様に揺れていた!
その後、仕事はいいから家族の元へとの会社の計らいで、信号が止まった道を保育園まで、子供達をお迎えにいった。
電話は繋がらず、妻とは連絡が取れなかった。
家も電気が付かず、当時は防災の知識もほとんどなかったけれど、ラジオが趣味だったので携帯ラジオを持っていたのと、いち早くスマホを使っていたのでTwitterが使えたのが幸運だった。
そうやって情報収集をしながら、しばらくしたら妻も帰ってきた。
けれど、施設のお年寄りのお世話をしに、妻は職場に戻っていき、1週間帰って来なかった。
その間、怯える子供達を励ましながら、幸いガスが使えたので、鍋でご飯を炊いておにぎりを作ったり、カップラーメンを作ったりしながら、子供達に食事を作った。
お湯を沸かして身体を拭いたりしたのだ。
助かったのはラジオから、子供達を励まそうとうパーソナリティーの声が聞こえ、「アンパンマンのマーチ」が流れて来たとき、子供達が少しだけ笑顔になったのを今でも覚えている。
震災が落ち着いた頃、妻が単身赴任に旅立った
そんな震災後、停電も収まり、妻の職場も落ち着いた頃、すごい惨状だというニュースをずっとテレビで見ていた。
そんな時、以前からの計画だった単身赴任の予定は止まらずに着々と進んでいったのだった。
今思うと、妻も心が痛かったのだろうと思う。
そんな愛する子供達を私に預けてくれる、それだけ信頼してくれている。
それに応えなければならないと自分の心に刻んだ。
妻が出発した日の事は未だに忘れられない。
子供達が泣き叫び、扉が閉まってもずっと泣いているのをなだめるのがとても心が痛かった。
たぶん、わたしも心で泣いていたのだと思う。
下の息子の心のケアの日々
その数ヶ月は、息子は、妻が帰って来る週末を心待ちにする日々が続いた。
わたしに「ママはいつ帰ってくるの?」っていう質問が毎日の様にされるようになった。
帰ってきた日は満面の笑みで妻に抱きつく子供達。
わたしもホッとできた週末だった。
それでも、また妻は月曜の早朝に出発していった。
そのたびに息子は大泣きし、なだめるのがとてもツラい作業だった。
なだめつつ、娘が小学校に通学するのを見届けたあと、息子を保育園に送り、仕事をしてから、保育園にお迎えにいっていた。
なるべく息子には面白おかしい話を作っては聞かせていた。
少しでも寂しさを忘れて欲しいからだった。
その頃に、ご飯の後の「おやつパーティー」が定番になっていった。
アニメを見ながら、近所のコンビニで買ってきたお菓子を食べる楽しいひとときだった。
そうやって月日が流れていった。
■まとめ
突然そんな生活も終わった。
妻の単身赴任が終わる日が来たのだった。
最初は栄転で同列会社の保育園の園長のポストを与えられた。
けれど、内部の政略に妻が負け、その職場を去った。
それからは、妻も転職をし、通常の家庭に戻ったのだった。
今は娘は、成人し一人暮らし、息子も高校生になっている。
でも、わたしはすごくいい宝物をもらったのだ。
あの子供達の可愛い成長過程を見れたことが、わたしの人生の宝物だ。
では、またね〜。